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  1. その一「怖いもの知らず」
  2. その二「何とかする」
  3. その三「果てしない好奇心」
  4. その四「思いつき、そして思いこむ」
  5. その五「飛びつく」
  6. その六「サニーサイドアップはブラックボックス」

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世間的な会社の公式ホームページなら「チャレンジ精神」などと言い変えるのだろうが、そういう“進取の気性”といった高邁な表現では真実を言い当てていないような気がする。
そう“怖いもの知らず”こそが初期のサニーサイドアップを走らせてきた原動力である。
サニーサイドアップの創業は1985年。ということになっているが、それ以前も法人化していないだけで、原型となる会社というか組織体はあった。初期のメンバーは先代社長。そして当時高校生の現社長の次原。そんなところからスタートした事もあって、当然ながら次原にはPR会社の経験はおろか、他の会社での社員経験もなし。
「私にできるかしら」「怖い大人に怒られたらどうしよう」とおっかなびっくり、会社員のフリをし続ける日々。。。。ということは全くなく、会社ごっこを満喫し、次第に学校より面白いと、放課後の付き合いを断るようになり、挙句の果てに同級生の松本(現ヴァイスプレジデント)を「いいアルバイト」があると引っ張り込む。以来、松本は“友人に翻弄され続けながら、いかに結果を残すか”という特殊な哲学とともに仕事人生をスタートさせる。

なので毎日が発見の連続。ストッキングのプレゼントパブリシティ(読者プレゼントを提供することにより、プレゼントページで商品紹介ができるというPR手法)のリリースを経済誌に持っていっては編集部にたしなめられ、少しでもテレビに映りこもうと、朝のワイドショーの屋外抜きシーンに合わせて待ち伏せたり、熱湯コマーシャル(若い人は知らないと思うが、熱湯に耐えた秒数分PRができる。出場者によって熱湯の温度が手加減されていた説あり)に参加したり、PRのために体を張っての、試行錯誤の連続だったが、とにかく仕事は面白い。学校行ってる暇はない。のノリ。何ともいえない素人力のようなところからサニーサイドアップのDNAは息づいている。

スポーツマネジメントを始めたきっかけも、SSUを広告代理店と勘違いした知人に、まだ無名だったトライアスロンの出場チームのスポンサー集めを頼まれ、“まぁいいか”と始めた結果、大手クライアントをバンバンつけて(ちなみにそのチームは惨敗)、それに驚いた当時のトライアスロントップアスリートの宮塚の「俺を売ってほしい」につながった。サッカー選手のマネジメントも、元はと言えば酒の席で出会った選手が「甲とか乙とかわけわかんないこと書いてあって読んでもわかんないからハンコ押しちゃうんですよね」とつぶやいたのを放っておけなくなったのがきっかけ。
サッカーに詳しいわけでも、球団関係者と渡り合った経験もないが、決して長くない選手寿命があるうちに、少しでも何かを残してあげたいという思いで、契約や選手個人の肖像権を生かした広告出演などのサポートをするのだが「なんだこいつら?」目線の黎明期のJリーグ球団を向こうにまわして一歩も引かなかったのは、怖いもの知らず力に、明確な使命感が結び付いたからでもある。

99年、ショートフィルムの魅力を熱く語り「日本でもショートフィルムの祭典を実現したい」との強い想いを持った別所哲也氏と組んで、ショートショートフィルムフェスティバルの立ち上げ、中田英寿の想いをストレートに発信できる場が欲しいとスタートさせた「nakata.net」、そして2002年サッカーワールドカップで日本にやってくる世界のサポーターのおもてなしをしようとオープンさせた「nakata.net.Cafe」その他数々の“はじめてをつくる”ことに躊躇がなかったのも、業界の慣習とかしがらみとか関係ない、よくわからないといういい意味の鈍感力。結果的に何とかなるだろうという漠然とした確信、楽観主義と合わさった怖いもの知らず力の賜物だったように思う。

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“仕事って何?” そう問われた時、何と答えるかは当然人それぞれ。
しかしサニーサイドアップは、この問いに対して“何とかすること”と答えて続ける歴史を積み重ねてきたように思う。
中野の小さなマンションの1室。いきなり“ぜひ、わが社を信用して下さい”というには、あまりに無理がある状況でスタートしただけに、お仕事を振り出してくれるクライアントのためなら、とにかく命がけで“何とかする”という想いが当たり前のように芽生え、続いてきた。
PR会社としてスタートしたサニーサイドアップ。PRという我々の仕事は、伝えるべき情報を、メディアがニュースとして発信するだけの価値に高め、広めていくこと。
メディアが価値が薄いと判断したら記事にもならない。一旦、“読者、視聴者にメリットがありそうだ”“ウチの媒体には載せるべき情報かも”と判断されても、事故や災害、著名人の逝去、日本人の快挙などの大ニュースが起きれば、枠を買い取っての広告ではないため、容赦なく流れる。
オリンピックの時期に、日本人選手の活躍を全く別な意味でドキドキしながら見守らなければならない因果な仕事がPRである。
そんな時に「こんな事件が起きたんじゃしょうがないですね」と状況は理解してくれても、それで終わりにはならない。
当然その代わりとなる二の矢、三の矢を放たなくてはならない。
結果が予想外だったら、間をおかずに、次にこれをやる、あれをやる。PRは水ものであるだけに、とにかく代わりに何とかする、穴埋めをする、クライアントに少しでも満足してもらうのがDNAとなり、そうしないと気が済まないというカラーは規模がある程度大きくなっても変わらない。
“やばい、何とかしなきゃ”必死に頭を回転させ、思いつく限りを始める。そうやって仕事力が鍛えられていった。

言っては何だが、世の中には高い専門性を持ちながらも、クライアントと寄り添うことなく、むしろ進んでいく結果にできるだけ巻き込まれないように安全な距離を置くことをポリシーにしている人種もいる。
自ら一蓮托生とばかりに渦に巻き込まれていくなんてナンセンスだったかもしれない。というか。
PR会社が、そういう状況でジタバタと食い下がることをしないという文化もあることを、他を見ている余裕はなかったのであまり知らなかったのである。
ただ思えば「そうはおっしゃいますが業界の常識的にはこうですよ」とたしなめたり、煙に巻くのが上手になるのではなく、がむしゃらに何とかしてきたことは確実に我々の財産となっている。
遠い昔、営業先で待たされた会議室の電話の短縮ダイヤル一覧表を見ては、“ここの短縮にウチ載りたいなぁ”と憧れていた時代の記憶を忘れずに成長してきたからだと思う。

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「本当に元気な会社ですね」「よくそんなに次から次に変な事思いつきますね」
ある時期から、あらゆるお付き合い先でそんな声をかけられることが多くなっていった。
もちろん褒め言葉として有難く受け止めて、励みにしてきたが、正直言えば、次から次に新しいことでも考えていかないと生きていけなかったというのも事実。
前述の通り、PR会社は、認知を広めたいと預かった商品をニュースや記事として露出させていくのが使命。我々がまだ本当に小さい会社だった頃、すでに大手と呼ばれていたPR会社には、テレビ局や出版社、新聞社にプレスリリースを持って“載せてください”をしに行く営業スタッフを大人数抱えていた。
一方、マンパワーではとうてい太刀打ちできなかったサニーサイドアップが至った結論は「何か面白い仕掛けでもして、向こうから来てもらうしかない」
“仕掛ける会社”という評判はそうした切迫した事情から生まれて行ったのである。
次から次にアイデアださないといけないからといって、血を吐きながら続けるマラソンのような悲壮感で仕事をしていたかと言うと、案外そうでもない。

なぜなら我々は、非常にミーハーで、好奇心が旺盛だったからである。
どうみても地味なイベントに、今、一番スキャンダラスなこの人を放り込んだらどうなるのか、今とあることで話題となっている場所でこんなばかばかしいパフォーマンスをしたら何が起きるのか。(具体名が書けないと表現がもどかしいが)
媒体露出を増やし、認知をあげていくという使命のための会議で、採用されるアイデアは、ほぼほぼ、その光景を“まず自分たちが見てみたい”に満ち溢れていた。
もちろんプロとしては、その“見てみたい光景”が生まれる背景に、なるほどといわせるストーリーをつけなくてはならない。
日々、さまざまな企業が、自分の都合で“自分を見て”とせめぎ合っている中で、発信する側の都合を差し置いても純粋に面白いと思えるネタ。我々のようなプロが面白いと自画自賛するレベルのものでなければ、ニュースとしてとりあげるかどうかの俎上に上らないのも事実。
人は楽しいもの、見たこともないものを見たいという真理は変わらない。

そもそも他人の話なんか聞く気のない人の心をこじ開けるインパクトがありながら、最後は伝えたい商品やメッセージも自然に伝わっていく。
そんなブレークスルーを日々、考え続ける。
会社のスローガン“たのしいさわぎをおこしたい”は、そんな日々を反映したものでもある。

「サニーサイドアップさんらしい企画をお願いします」
その期待に、幾度となく苦しめられてもきたが、その結果として“サニーサイドアップとつながっていたい”“またサニーサイドアップに頼めるプロジェクトをつくりたい”そう思ってくれるクライアントの存在が励みであり、それが新しいものを生むチカラにつながる歩みであった。

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“仕事の起点っていつ?“この問いに対するいくつかの答えは、その人個人の仕事や仕事観を反映したものになる。
我々のような仕事であれば、オリエンを受けた時、企画が通って発注を受けた時点が仕事の起点なのかもしれないが、まぁ仕事って何だろうの定義にも関わってくるが、思い起こせば何が仕事の起点だったかわからなくなる時がある。
“何より自分たちが最初にそれを見てみたい”、“ワクワクしたい”を原動力に、笑えるモノ、旬なモノ、自分たちが会ってみたい人、関わってみたいものに強引に結び付けたり、自分たちが面白がれないものは人に提案できない的な文化が培われてきたことは書いたが、それが高じてくると、具体的に頼まれもしていない段階で、この情熱で仕事をひとつつくってしまおうかという方向にエネルギーが向かうことがある。

培ってきた仕事スタイルが生んだ宿命といえば宿命。思いついちゃったんだからしょうがない。
いつか使える時のためにと引き出しにしまうこともあるが、たいがい、いま思いついたことは、いまやりたいわけで、それは次第に「絶対面白い」「ビジネスになる」という思い込みに発展していく。そして誰からも発注を受けていない仕事というものが生まれ、その妄想が溢れんばかりに注がれた企画書が旅を始める。

そうしてサニーサイドアップの歴史に名を刻んだ企画もあるが、妄想のまま終わったものも数知れず。「ちょっと冷静に考えれば、こんな企画が通るわけがない」「夜中のファミレスでひとりで盛り上がって企画書書いたのがいけなかったのか。。。」
ダメだった理由を振り返ることに意味はなくはないが、思いつき、思い込み、形にしたこと自体は無駄ではない。

まぁ世の中には、何のためにつくったのかわからない、使う側のへの思いやりのかけらもない、見るからに“これはダメだろう”な企画や商品・サービスもある。
が、そのハードルを乗り越えたものの中にも、世の中で当たるもの、当たらないものがある。
これは決して正解・不正解に分類できるものではない。
自分勝手で気まぐれな生き物たちが、もっともらしい理屈をつけて進んでいくのが人間社会である。
“当たった”、“当たらない”それぞれに後から理屈はつけられるが、それは正解・不正解ではない。
だから思いついたら、思い込まなければいけないのである。

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“チャンスの神様には前髪しかない”は言い古された言葉だが、そんな言葉を座右の銘にしているわけでもなく、何か胸が踊るものには手を出しておこう。我々にはそんな性分がある気がする。
見た、聞いた瞬間に“うわっいい”“やろうやろう”と思った時に瞬発力や行動力、「すぐ電話をかける」「囲い込みにかかる」も大事だが、話を聞いた時点ではそこにいるメンバーが“ふーん”といいつつメールをチェックし始める空気の中で、たった一人だけが、それが気になってどうしようもなくなる。こんな状況から大化けするものが生まれることもある。
理屈の前に、直観力。あれこれこねくり回す前に動いてみる。そんな文化があるのもサニーサイドアップ。ちょっと芽が伸び始めたものに、“いっちょ噛みたい”と言い続け、結果的にたぐりよせたものもあるが、芽も出るか出ないうちに飛びついたものも多い。いや時に芽をつぶしてしまったこともあるかもしれない。この行動力、飛びつく力がなくなったら、サニーサイドアップではなくなる時なのかもしれない。

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ある時、アスリートという“人”を預かることになった時、「商品も、人も、それを輝かせるためにやるべきことは同じじゃないのかな」という簡単な理屈で、選手のマネジメントやブランディングに携わるようになった。その手法は何もスポーツ選手に限ったことではないと、エンターテインメントの分野にも関わるようになった。
会社案内ではその頃からシナジーと言う言葉を使ったが、自分たちは、そもそもPR的発想を持っていて、“伝える”と言う出口を握っているんだから、何をやろうがシナジーがあって当たり前である。
PRがこれができるんだから、これもやっちゃおうかという思いつきのもと、それをいろいろ傷つきながらも実践してきたのがサニーサイドアップ。
自分たちがPRを通じて、モノの価値を変えることができるのだから、自分たちでもそのコンテンツをつくらないとかおかしい。
そう思って、新しい事業も生み出した。
ある時期から、サニーサイドアップが“創造型PR商社”というフレーズを使い始めたのも、自分たちがPR的発想というかけがえのない武器を持つことで、預かったものを世の中に知らせていく事以外の役割を引き受けられる、ビジネスにつなげられるとの発想からだった。
この“PR商社”という言葉は、いくつかのPR会社が使うようにもなってきているが、その結果として、一言で何屋さんか答えられなくなってきている。

新人が入社後初めて故郷に帰り、「どんな仕事してるの」の質問に困惑する。
ビジネスの席で、パーティ会場で、会社を一言で説明する時のフレーズがみんな違う。
そんな現象が生まれてきているが、それはそれで今のサニーサイドアップの特色である。

“PR的な発想を持ったひとり一人が起点となって、いろんなビジネスを生み出している集団です”
そんな答え方が近々、普通になるくらい、さまざまなスペシャリストが生まれてきている。

一人一人が個性やスペシャリティを持った会社には、人が集まってくる。
「いろんなことやってるから、あそこに相談すれば何とかしてくれるんじゃないか」
そうして、集まってきた人や情報が元になって、また新しい何かが生まれ、その蓄積がさらに強さを生み、何とかするチカラが磨かれる。
当たり前だがものごとの起点は常に人だし、それが何かを生みだすのは関わった個々の情熱である。

“自社だけでやっていては、同じような発想の、決まった数式での答えしかでない”
だからサニーサイドアップに掛け合わせる変数の役割を期待する。
その期待通りに1を放り込んで10が出てくるサービスを提供し続けるだけでは感動も、驚きも生まないし、自分たちもつまらない。
それで仕事のハードルをあげてしまったところはあっても、それが自分たちが選ばれる理由だと考えてきた。
錬金術師といえばかっこいいが、ただ出てくるものが金や銀の時もあれば、飛び出してきた時代では価値評価できない何かが飛び出し、その時点では謝るしかないことだって起こる。
ただその錬金術師的な個性と、その時代時代によって想像もつかない変数を持っていることが、何よりの強みであり、サニーサイドアップはこれからもブラックボックスのような存在であり続けるのだろうと思う。

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