東京・中野のワンルームマンションで、母と友人、そして私の女性三人だけでPR会社を立ち上げてから、十九年。今でこそ、サッカーの中田英寿や水泳の北島康介が所属する事務所(サニーサイドアップ)としてその業界では多少知られる私たちですが、当時は右も左もわからないただの新参者≠ナした。
そんな駆け出し時代に出会い、今日までずっと仕事をともにしてきた一人の印象的なアスリートがいます。飯島夏樹、三十七歳。彼は八十年代から九十年代にかけて、プロウィンドサーファーとしてワールドカップを転戦し、アジアの人間でも、世界のマリンスポーツ界で十分通用することを示した最初の日本人でした。現在、夏樹は妻と幼い四人の子ども達と暮らしています。まだまだやりたいことも、やらなければいけないことも山のようにあるはずです。しかし、近いうちに私たちは彼に永遠の別れを告げなければなりません。
なぜなら彼の肝臓には末期ガンが巣食い、回復の見込みがないと診断されているのです。ことし六月、医師から告げられた彼の余命はわずかに半年。「夏は越せないかもしれない」と言われました──。
私と夏樹が出逢ったのは、九十年のこと。当時すでにプロ選手として活躍し、マウイ島を拠点としていた夏樹とは、アイアンマンのトライアスリートの仕事でハワイ島と訪れた際に知人の紹介で出逢いました。当時はまだ、スポーツ・エージェントといったビジネスは殆ど存在しなかったので、夏樹は転戦費用をつくるためにも、スポンサー探しやプロモーションを担う存在を求めていたのでしょう。出逢ってしばらくすると「自分のプロモーションをお願いしたい」という申し出を彼から受けました。思えば、現在、私たちの事務所に所属するスポーツ選手の中で、本当に小さな会社だったあの時期を知る者はあまりいません。その意味でも夏樹は、私たちにとって二十代から三十代の公私ともに変化に富んだ時間を共有してきた貴重な同士なのです。
実をいうと、私自身は本格的にスポーツをやったこともなければ、特にスポーツが大好きというわけでもありませんでした。ただ、根っからの世話好きで、困っている人から何かを頼まれるとじっとしていられなくなってしまう。そんな調子でスポーツ・エージェントの世界に足を踏み入れたに過ぎません。夏樹の場合も、マネージメントを引き受けたものの、当初はウィンドサーフィンがどのようなスポーツなのかさえさっぱり分かりません。夏樹本人は日本のトップ選手であり、ビジュアルも人並み以上な上に、琉球大学在学中にいきなり世界に飛び出して活躍するというサクセスストーリーを体現していたので、その世界では有名ではありました。しかし、ウィンドサーフィンはメジャーなスポーツとは言い難い。まさに手探りの状態で、セイルやボードなどに広告を出してくれるスポンサーを探して回るという、今から思えばずいぶん無謀な売込みを展開したものです。この時代の無我夢中の頑張りが現在の我が社の活動に繋がっていることは確かで、夏樹をはじめ、あの当時の選手たちなくして、今の自分はなかったといっても過言ではありません。
その頃の夏樹は世界を転戦する一方で、ウィンドサーフィンの競技人口を増やすことや、マーケットを開拓することに興味を持ち始めていました。そんな折、私たちはPR会社として、ある企業からグアムにある無人島、ココス島の集客に役立つプランを考えてくれないかという話をもちかけられました。南の島といえば夏樹。私たちは彼に意見を求めました。夏樹はグアムに足を踏み入れたこともありませんでした。ところが現地を訪れてみると、そこはちょうど貿易風の通り道になっているまさに「風の島」。夏樹はすっかり気に入ってしまいました。日本から近いという立地を活かし、ウィンドサーファーがこぞって訪れる島に出来ると意気込んで、早速飯島夏樹といくココスの旅≠ニ題した日本からのツアーを企画。ココス島に惚れ込んだ夏樹は現役選手を引退し、ついにはグアムへ移住する決意を固めたのです。夏樹は昔から、決断や実行が早い人間でした。
ウィンドサーフィンスクールを経営するなど、ココス島でのビジネスは軌道に乗り、ビーチにオーシャンビューの家を構え、子どもの誕生とともに増えていく家族と一緒に、夏樹は幸せな第二の人生を築きつつありました。
突然のガン発見
ところが、おととし六月、事態は大きな変化を迎えます。夏樹が肝細胞ガンに侵されていることが分かったのです。一流のアスリートとして活躍し、真っ黒に日焼けした肌と鍛え上げた筋肉を誇り、誰より健康そうに見える夏樹の体に病魔が住み着いている──。自分と同じ年の、まだ三十五歳の青年にそんなことが起きるのが信じられませんでした。まだ若いのだから。ガンなんて、自分の身の周りとは関係のないものだから。「嘘でしょう」というのが正直な感想でした。
夏樹はその少し前から微熱が続き、なんだか疲れやすいと感じていたようです。しかし、健康そのものといった外見の夏樹をはじめ、周囲もみな、大したことではないと思っていました。会社勤めの経験がない夏樹は、健康診断すら受けたことがありませんでしたが、「一度くらいは診てもらおうか」という気分で検査を受けたところ、ガンが発見されたのです。しかし、今の時代、ガンは不治の病ではありません。私の周囲にもガンを克服した人は何人もいます。夏樹のガンを初めて知らされた時、私は大きなショックを受ける一方で、「でも、絶対に治る」と固く信じていました。夏樹も実感が湧かない様子で、急に病気を告げられ、いきなり手術の段取りが決まり、という中で「手術すれば治る」と考えていたようです。まさか、そう遠くない未来に「余命半年」などと宣告を受けるとは、誰も想像だにしていませんでした。
告知から約三週間後には一度目の手術が行われました。そして手術後、夏樹は私に頼みがあると言い出したのです。
「自分は絶対に死ぬとは思っていないけれど、手術の前に自分の思いや、子どもと妻へのメッセージを大学ノートに書きとめた。それをどうにか形にできないだろうか」
私は「絶対に死なないと約束してくれるなら、やるわ」と答えました。後述しますが、この文章を書くという作業が、後の夏樹の闘病に大きな影響を与えるころになるのです。
最初の手術を終え、グアムに戻ることにはなりましたが、経過観察のために月に一度は日本を訪れる必要がありました。この月に一度の帰国は非常につらいものでした。なにしろ、検査するたびにガンの再発が見つかり、その都度、放射線治療などを受けるのです。毎月毎月繰り返される検査で「再発なし」と診断されたのはたったの一度きりでした。
検査のたびに襲ってくる不安に怯えながらも、夏樹は少しずつ、自分自身のことを書き始めていました。去年二月には私たちがサポートしてホームページを立ち上げ、彼のエッセイを掲載することになりました。その頃のエッセイはグアムでの楽しい生活を描いたもので、非常に明るい内容でした。本人も「助かる」という信念の下、前向きな気持ちを保っていたのでしょう。しかし、グアムと東京を何往復もして検査と治療を繰り返すうちに、病状は段々と思わしくない方向へと向かっていました。ホームページの立ち上げ当初は光に満ちた生活をエッセイに書いていた夏樹でしたが、一向に改善しない病状に、徐々に不安が膨らんだのでしょう。検査を終えてグアムに戻っても「自分はいつまでこうしていられるのか。いつまで家族と過ごせるのか」と毎日考えていたと、後になって聞きました。エッセイを書こうとして己に向き合うと、屈強だった身体が確実に衰えていくことを実感し、文章にもその影が色濃く落ちるようになっていったのです。
彼はうつ病とパニック障害を同時に発病していました。もともとスポーツ選手というのは、精神的に追いつめられたぎりぎりの状態で常に戦っているだけに、精神的に脆い部分があるのも事実です。夏樹にも現役時代から睡眠障害がありました。私たちの事務所に所属するほかの選手の中にも、屈強そうに見えて、試合前になると精神的に不安定になる選手が実は少なくありません。
うつに悩んだ日々
夏樹がうつ病を発症した大きなきっかけは、治療方針の変更でした。手術をしても放射線治療をしても次々と再発するガンを前に、最初の主治医は、「もうこれは肝臓移植をするしかない」と決断しました。すでにグアムに戻っていた夏樹を医師はわざわざ訪ねて、治療方針を説明するとともに、グアムで仕事を手伝ってくれていた夏樹のお兄様にドナーになるよう説得してくれたのです。突然の話に、夏樹もお兄様もさぞかし悩んだにちがいありません。しかし、それしか治る道がないならば、賭けてみようと決めるのに、時間はそれほどかかりませんでした。わずか一週間でグアムの会社を譲渡し、家も叩き売り、子ども達の転校手続きも済ませ、スーツケースを抱えて実家のある八王子に移ったのです。まさに着の身着のままという状態の帰国でした。
ただし、夏樹本人は持ち前の決断力で日本行きと生体肝移植を即決したものの、妻の気持ちはそう簡単ではありません。夫の病気に直面し、少しでも良い方向へ向かうことを願ってやまない夫人の寛子さんは、セカンドオピニオンを求めたのです。本人には内緒で、それまでの治療データを携えて、国立がんセンターに意見を聞きにいきました。そこで下された診断結果は、驚くべきものでした。「肝移植にはまったく値しない」。がんセンターの医師は、最初の主治医がガンの再発だとして治療を続けてきた腫瘍のようなものを、ほんとうに腫瘍なのか単なる血流障害なのかを現時点で判別することは難しい。しかし、おそらく血流障害である可能性が高いので、多額の費用と患者、ドナーへの身体的負担をかけてまで行う肝移植の対象にはならないと判断し、経過観察を行うことになったのです。
それを聞いた夏樹は、大きな衝撃を受けました。グアムでのビジネス、手に入れた家、そんな生活のすべてを投げ打って帰ってきたのは何のためだったのか。そもそもセカンドオピニオンを求めること自体が親身になってくれた医師に対して失礼なのではないか。もう訳の分からない状態。何とか本人を国立がんセンターに連れて行き、改めて検査をしても、やはり答は同じでした。
この一件で夏樹は、すっかり精神のバランスを崩してしまいました。まったくベッドから起き上がれず、それまで熱心に書いていた文章も一切書けない。グアムの原生林と海に囲まれた家から八王子のアパートに一家六人で移り、光の入らないベッドに寝転んで、何も出来ない、そもそもすることがない状態に放り出されてしまったのです。信じた医師の治療方針を運命だと思って受け入れようとした矢先に全てが引っ繰り返り、何を信じていいのか分からない状態でした。
ひどいうつ病の時期に、私も何度か夏樹に会っていますが、その様子は筆舌に尽くし難いものがあります。世話になった人に挨拶に行っても、始終ウォークマンのイヤホンを耳から離さず、俯いている。まるで周りの世界を拒絶するような態度で、何も話さない状態がつづきました。うつ病の夏樹にとって、八王子の自宅から新宿にある私たちの事務所までの道のりが大冒険でした。電車に乗ることすらまともに出来ない。人の目を見ることなど絶対に出来ない。一目見て尋常ではないのです。後々、夏樹がうつ病を克服してから聞いた話ですが、当時の彼はとにかく自分のいる世界が怖くて仕方がなかったといいます。「なんでみんなこんな世の中で平気な顔して生きていられるんだ?」という思いが頭の中で渦巻き、自動車が走る音でさえ怖いし、金を稼ぐためにあくせく仕事をしている周囲が理解できない、汚い、と思っていたそうです。うつ病だった時期も夏樹は私のオフィスにときどき顔を出していました。オフィスのソファーに寝転んだ夏樹が、次々と電話を済ませる私に、「悦っちゃん。仕事、楽しい?」とボソッと聞いてきたことがあります。言葉に詰まって、一瞬何も返せませんでしたが、何だか恐ろしいような印象を抱いたものです。彼は当時の自分のことを「亀がひっくり返って足をばたばたさせている状態だった」と表現しています。もがいてももがいても、自分ではどうすることも出来なかったのです。
外界に怯えている彼に対して、家族も友人も「頑張れ」といい続けてしまいました。「幼い子どもが四人もいるのだから諦めるな」とか「ベッドから起き上がれないなんて甘えているだけだ」などと言われれば言われるほど、本人は「自分だって好きでこんな風になったんじゃない。頑張って治るならいくらでも頑張るよ」とどんどんと悲観的になっていったのです。今でこそ誰かがうっかり「頑張れ」と言ったりすると、「いや、頑張らない。うつになるから」と笑って返せる夏樹ですが、その時はもちろんそんな返事などできるはずもありませんでした。
反対に、躁状態になったこともありました。毎月受けていた検査でたった一度だけ、再発がないと言われた時のことです。検査が終わり次第グアムに戻れる。夏樹は喜んで家族の元へ帰ろうとしたのですが、成田空港で天候不順のために足止めされてしまいました。そうこうしているうちに、グアムは台風に襲われ、インフラが被害を受けてしまったのです。グアムに飛び立つことも出来ず、三日ほど成田にいた夏樹は、「被災した現地の人たちを助けなくては」と思い立ち、一台十万円以上もする自家発電用の機械を成田空港の近くの量販店で山のように買い込んできました。それをグアムに戻ってから配って回ったというのです。やたらと買い物をするというのは典型的な躁の状態だといいます。
うつ病に陥った夏樹がどうやってそれを克服できたかのか。はっきりとした原因は分かりません。精神科で治療を受けることと並行し、実家近くのレストランで配膳係をしたことなども良かったのかもしれません。慣れない仕事だったので、帰る頃にはぐったりと疲れて、少し眠れるようになったようでした。もちろん、妻と子どもの存在もあったのでしょう。夏樹は少しずつ、現実を受け入れられるようになり、精神的な安定を取り戻すことができました。
書くことの効果
しかし、現実は残酷なものです。去年十二月、がんセンターの検査で再発が見つかり、ことし三月に行われた二度目の大きな手術を経ても夏樹の病は治らず、この六月、とうとう余命半年と宣告されました。手術で摘出した肝臓の写真を本人から見せられたことがあります。右葉の部分全体の写真ですが、「よくこれで肝臓としての働きをしているな」と思うほど、まともな部分がないのです。本人は「イクラみたいでしょ」などと冗談めかして言うのですが、ぷつぷつとした腫瘍がびっしりと肝臓を覆っていました。医師は、残された左葉もいまは同じようになっているのではないかと話していました。夏樹の心が再び不安定になることを私は恐れましたが、彼はいま平常心を保っています。なぜか。彼がうつ病の発症で一度は中断した「書く」ということを、少し形を変えて再開したことが大きく寄与しているのだと思います。文章の力は意外なほど大きかったのです。
病気が判明した当初から、書くことに対する熱意を抱いた夏樹でしたが、エッセイを書くうちに、自身のあまりにも過酷な現実に向き合いきれなくなり、うつ病の引き鉄の一つとしてしまったことは先に述べました。しかし、お世話になった国立がんセンターを舞台にした小説をあらためて書くことで、夏樹は再び光を見つけることとなったのです。今度はフィクションのスタイルにして、自分との距離を保ちながらも本心をちりばめて綴る。こうして書き上げた夏樹の小説『天国で君に逢えたら』(新潮社)は、すでに七月末に発売されました。最初は手書きだった原稿が、寝てもかけるようにとパソコンでの執筆に変っても、夏樹の熱意は一向に衰えていません。
本人が「作文療法」と呼ぶ小説の執筆を、夏樹は二度目の手術のひと月ほど前から始めました。アイディアがどんどんと溢れ出てくるらしいのです。登場人物のせりふや動きに、本人の思いを間接的に反映させてもいます。最初に原稿を読んでもらった出版社の方も「初めて小説を書いたとは思えないほどの出来。現実を受け容れたガン患者にしか描けない世界ですね」と舌を巻いたほどでした。小説の中で、あるガン患者が総合病院に入院していたとき、同室の患者が「ガンじゃなくてよかった。ガンになっちゃあもう人生おしまいだからね。わしら本当に運がいい」と話しているのを聞いてしまい、大いに傷つくというシーンがあります。これは夏樹の本心そのものの表れです。少し奇妙に聞こえるかも知れませんが、夏樹はがんセンターが大好きなのです。がんセンターの患者は、部位の違いこそあれ、全員がガン患者。同じ病気の患者同士、分かりあえるものがあるのでしょう。それにガンだと告知されている患者ばかりだから、医師との間にも嘘がありません。そして、何よりもその景色。海が近いことももちろんですが、築地の市場が目の前にあり、朝三時頃から、生き生きと働く姿がすぐ側にある。働く人の動きを眺めていると生きているという実感が湧いてくるそうです。
こうして今では、完全に現実を受け容れた夏樹ですが、さすがに子ども達のことを考えると涙がこぼれるといいます。私たちには決して涙を見せないのですが、幼い子ども達を残して逝かざるを得ないことだけは、どうしても悔やまれてならないのでしょう。先日、夏樹は尊厳死の意思を示すために書面を作成しましたが、その背景には、延命治療に莫大な費用を使うくらいならば、愛する子ども達の教育費にあてたいという精一杯の親心もあるようです。これから思春期を迎え、成長していこうとする子ども達。その大事な時期に、自分は寄り添ってやることすらできない。叱ることも、抱きしめてやることも、道を示してやることも、何一つできない。せめて、わが子の未来へとつながる教育のために少しでもお金を残したい。そうすることで父としての義務を果たそうとしているのです。
いま、夏樹は新しい抗ガン剤を試そうとする一方で、ホスピス探しや葬儀の相談を進めるなど、うまく精神のバランスをとって一歩ずつ進んでいこうとしています。愛する家族と一日でも長く過ごし、納得した最期を迎えるため、全力で走っているように私には見えます。夏樹の奥さんの寛子さんは、若いときから生活の全てを夏樹のために捧げてきたような女性です。夏樹がワールドカップに参戦するため世界中を飛び回っていた当時から、夏樹の荷物の整理や食事、夏樹が自分の走りをチェックするためのビデオ撮影を担ってきました。
ある日、私は彼女にどんな気持ちなのか聞いてみました。一人で悩みを抱えているのではないかとも思ったからです。すると彼女は「悦っちゃん、分かんないのよー。」と答える。迫ってくる現実と、目の前の夫についていくだけで精一杯といった様子でした。独りぼっちになると、突然、がんセンターのすぐそばの公園で、ベンチに座りながらぽろぽろぽろぽろと止め処なく涙がこぼれる。それでも、何がなんだかもう訳が分からないというのです。夏樹の四人の子ども達はとにかく元気。一人でも大変なくらいに元気な子どもが四人もいる。子ども達にも、父の病気や迫り来る死の意味を理解させ、本人にも子ども達にもよい最期を迎えさせたい。それを実現する手立てを考えながら、日々の世話もこなしていると、落ち込んでいる暇さえないのかもしれません。
その子ども達は幼いながらに父親の病気を理解しようとしています。十歳の長女と八歳の双子の男の子、二歳の末っ子がいますが、子ども達は実感が持てないのか、私たちの前でも平気な顔をして「パパ死んじゃうの?」と聞いてきます。八歳の男の子は、夏樹が抗ガン剤治療を終えると「パパのガン、分解したかな?」と母親に聞いていました。事前に母親の説明を聞き、自分なりに理解したようです。治療が成功したかどうか、彼なりの言葉で確かめたかったのです。その悲壮感のない無邪気な姿を見るたびに、同じく子どもを持つ身としては、言いようのない気持ちになってしまいます。
夏樹一家は八月中旬からハワイに再び移住する予定です。当初、夏樹の健康状態を考えて反対しましたが、彼の決意が固く、賛成せざるを得ませんでした。二十代の初めから海外を飛び回ってきた夏樹は、大好きな海を見ながら、最期の時まで書き続ける。その姿を子ども達にも見せること。それが望みなのだと理解しています。ハワイには在宅ホスピスがあり、自宅で緩和治療を受けながら家族と暮らせるそうです。夏樹はこの在宅ホスピスに魅力を感じたと話していました。
一人では死なせない
夏樹の小説『天国で君に逢えたら』を通して「現役時代よりも、小説を書いている今の方が楽しい。これが俺の天職かもしれない」と語る夏樹の想いを、一人でも多くの人に感じてもらえたらと願っています。実は、夏樹はこの小説の続編を四作目まですでに書き終えているのですが、彼の現役時代を目にせず、病気に苦しむ姿ばかりを見て育つ子ども達にも、彼の遺す小説は大きな贈り物になるでしょう。
そして、私の現在の思いは、ただ一つ。「夏樹を一人で死なせたくない」ということです。所属する選手の人生をすべて預かっているというのが、私たちマネージメント業の仕事です。選手にはいい時もあれば悪い時もある。最も輝いている時期を100%の信頼で私たちに委ねてくれるアスリートの光が少しずつ衰えても、決して見捨てることなど出来ません。どの選手に対しても常に引退後も見据えた形で向き合ってきました。しかし、まさかこんなに早く選手の死までも受け止めなければいけない時期が来るとは思いもしませんでした。夏樹と会うと「まだ生きてるのね」などと軽口もたたきますが、一人きりになると、時折、感情の波にさらわれそうになります。いまでもどこかで、これからどんどんと元気になってくれるのではないかという希望を捨てられません。しかし、夏樹とその家族が現実を受け止め、残された時間を精一杯過ごそうとしている今、仲間として時間を共有してきた私に出来ることが何なのか。夏樹とともに過ごとのせる残された時間に宿題の答えを出していきたいと思います。
<文藝春秋 2004年9月特別号掲載>
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